■■■仮設訪問をして〜定住外国人の法的地位〜胸を張って生きる権利■■■
かの歴史的経緯からして、私達を解放された国の民と言う。しかし、現実は、とうの昔に日本籍を離れたにも拘わらず、日本に定住する外国人としての法的地位は、未だに確立されていない。人権宣言、人権規約は勿論のこと、日本国憲法においても法の下での内外人平等をうたっている。本当にそうたり得ているのか。此処に、今尚、日本という国を問い続ける一人のハルモニがいる。ハルモニは言う。「日本に来て五十数年、私の苦労を全部言い尽くそうと思えば、時間が足らない。誰に頼れるでも無く、限りある以上の努力もしたが、それもこの震災で力尽きた。そんな私でも、今、つくづく思うことがある。あの時、日本人と同じように年金に入れていたら、全面的に生活保護の世話になる必要も無かった。ある日、役所の人に『今、年金を受けられる道はないものか』と尋ねたら、返ってきた答えが、『どちらから貰っても、同じじゃないか』であった。違うんや。年金は、貰っていると胸を張って人様に言えるが、生活保護は、そうはいかない。自分自身の気持ちが違うんや・・・」と。切なかった。気が遠くなるような月日が流れ去ったにも拘わらず、日本人であるやなしやでことを計るこの国は、国籍条項という項目をかかげて、私たち外国人を差別し続けているのである。ハルモニは、こうも言う。「私たちは、朝鮮人やから、日本人と差別されてもしょうがないんや・・・」。
一体だれが、このハルモニの人たり得る尊厳を権利意識を奪い取ったのか。
この国は、過去において、一度は棄民政策をとった沖縄、小笠原、そして、中国残留孤児に対しては、もともと日本人であったと言う理由で、現在、年金については救済措置をとっている。しかし、自分らの勝手で突然日本人にしたにも拘わらず、返す刀で又も一方的に外国人扱いをした韓国朝鮮・台湾の人々に対しては年金制度が発足したあの日あの時、日本人でなかったという理由にてこの制度からばっさりと切り捨てられた。その後恩恵に浴する形で、国民年金への加入は認められたが、福祉年金問題は、今尚、国籍条項を盾に、棚上げ状態になっているのである。つまりこのことは、この国があくまで市民的な権利部分に関してはそれはそれとしてある程度は認めるが、かの植民地支配に依るところの結果から生じた問題であるとの捉え方は、絶対しないということを端的に示している。
在日のハルモニ達は(勿論ハラボジ達もである)、日本社会のネットワークからも外され、自助努力の名の下で「恨」(ある意味では、無念さ)と共に生きて来た。この気持ちをどうすればほぐすことできるのか。解放は、まだ道なかばである。私たち一人一人の力量を今問われている。
(李玉順)
■■■『KFC 日本語ボランティアの会』結成〜「被災ベトナム人日本語教室」が
KFC の日本語部へ■■■
6月14日(土)神戸市新長田勤労市民センター(ジョイプラザ3F)で「被災ベトナム人日本語教室」の総会を開き、「被災ベトナム人日本語教室」は「神戸定住外国人支援センター(KFC)の日本語教室」として神戸の外国人への日本語学習支援を継続していくことが正式に決定しました。同時に、「KFC
日本語ボランティアの会」を結成しました。「KFC
日本語ボランティアの会」は、主に日本語学習支援を行うボランティアのメンバーによる会員制(年会費2,000円)の会です。被災ベトナム人日本語教室の活動をそのまま引き継ぎ、日本語学習支援、学習支援者の研修活動(ブラッシュアップ講座)などを行います。また、学習者との交流活動や媒介言語講座などは、KFC
のもとで行います。総会では KFC の神田裕代表があいさつされ、同時に支援活動のあり方を講演されました。外国人と共生するためには、お互いが違い(アイデンティティ)を認め人権を尊重しあうことが大切であるということを事例をあげながら話されました。「教えてやっている」、「教えてもらっている」という関係になりがちな日本語学習支援活動に対し、「学習者から学び、自己を検証し、自分を変えていくことのできるような支援活動であって欲しい」との提起がなされました。「KFC
日本語ボランティアの会」へ入会し、日本語学習支援をしてくださる方は、ご連絡ください。
(長嶋昭親)
■■■日系アメリカ人のこと■■■
19世紀から20世紀の初めにかけて、多くの日本人が海を渡り、ハワイとアメリカ各地に労働者として移動した。彼等の労働力は大きく、1921年にはカリフォルニアの全農生産物の12.3%を日本人が生産していた。
けれども、アメリカでの彼等の生活は、たやすいものからは程遠かった。白人からの有形・無形の差別は厳しかった。それには初期の移民が若い男性中心であったので、出稼ぎ的な意識が強く、なりふり構わぬ金儲け振りがアメリカ人の反感を増加させていた面もあった。後には、日本から妻を呼び寄せ、永住の覚悟を持ってアメリカ社会の一員になろうとする考えが在米日本人の間で強くなっていった。しかし写真だけでお見合いをする日本人のシステムが、またアメリカ社会から批判の的となったのであった。この批判の裏には、家族をかまえた日本人がアメリカ社会に根を下ろすことを嫌う気持ちがあった、と言われている。
当時の在米日本人の困難の一つに、資金調達方法が非常に限られていたことがあった。事業を始めるためにアメリカの銀行からローンを借りることは、ほとんど不可能であった。また、日本の出先銀行からもなかなか融資してもらえなかった。日本人達は県人会組織で、頼母子や無尽と呼ばれる、互いに金を貸し与えるインフォーマルな組織を作り、工夫していた。
日本に住む定住外国人が、よく仲間内でお金の貸し借りをすることがあると聞く。日系アメリカ人の歴史を読むと、海外へ移民した日本人も同じ様なことをしていたようだ。受け入れ社会の在り様に応じて、人々は自衛のための工夫を迫られている。
(戸田佳子)
参考文献:山本剛郎「日系アメリカ人コミュニティの構造と変動」同『コミュニティとエスニシティ』ミネルヴァ書房、1997年。
■■■ボランティアの皆さんに感謝!■■■
6月14日、KFC 日本語ボランティア会の総会に参加しました。実は、日本語ボラティアの皆さんのお顔が知りたくて、また少し興味もあって行きました。そこでは、30人近くの人が集まって会議が始まっていました。みんな真剣に話し合っていました。今までの活動は、まとめて報告がありました。
ボランティアと一言で言うのは簡単だけれど、その協力はすごいと思います。ベトナム人と違って、時間がとても大事な日本人。日本語教室がここまで大きくなったことは、普通ではできないことだと思います。言葉や習慣の違いでいろんなことが起きるはずなのに、皆さんのやさしさでここまで支えてくれました。
神田神父様がこんなことを話してくれました。「日本人は青色、ベトナム人は黄色。自分の色をしっかり守るだけでは、いつまでも仲良くなりません。でも日本人に「黄色になれ」といっても無理です。同じように、ベトナム人に「青になれ」といっても無理です。一緒になって緑になれば、仲良くやっていけるでしょう」。こんな意味のことを言われたと思います。少しずつ、私の関心が感動に変わっていきました。私たちは何人ぐらいボランティアの皆さんの苦労が分かっているのでしょう。恩返しするのは無理だけれども、一生懸命勉強して日本語が上手になることだけでも、皆さんへのお返しの一つだと思います。皆さんありがとう。
私自身は、のんきでわがままなベトナム人に、なんでここまで親切にしてくれるの、と思うことがあります。
これからも私たち力を貸してください。
(ハ ティ タン ガ)
■■■国籍を理由とした家主の入居差別■■■
保証金は月末までに払えばよいとの了解を得て手付け金を支払った後、公的資金から保証金を借り受けようと5月16日当センターへ相談に来られた長田区のKさんが、その後に宅建業者を通じて『すぐに保証金を払えない人はお断りする』との理由で入居拒否の通告があり、保証金はすぐに払うと回答するも一方的に手付け金を返されて入居を断わられるという入居拒否事件が発生しました。
Kさんは現在の住宅への入居時も今回の宅建業者を通して家賃10万円の住宅に入居しており、家賃7万円の長田区二葉町の住宅に引っ越して生活費の支出を減らそうと計画していました。
在日コリアン人権協会・兵庫等3団体が昨年提出した兵庫県への定住外国人施策総合要望書にたいする回答交渉が5月28日にあり、この席で今回の入居差別の事実が明らかにされました。そして、出席していた都市住宅部建築指導課は業者に対し指導を行うと約束しました。
現在、県宅建業係から宅建業者を通して、家主に、なぜ入居拒否をしたのかという理由調査を行っています。
国籍を理由とした入居差別をする家主には、宅建業者の担当者自身が直接指導できるような意識改革啓発研修を宅建業団体に実施してもらうよう、兵庫県に今後要望していくようにします。
(在日コリアン人権協会 孫敏男)
■■■南駒栄テント教室でPさんとともに■■■
「お父さん、風邪、元気くない。ベトナム、寒いない」。
テントでの学習を初めて、一年以上たっても、彼女の日本語はこんな調子だ。また頭を抱えてしまう。教授法を学び、私なりに授業にも工夫を凝らしてきたつもりなのに・・・。
そんな私の当惑をよそに、彼女の主張はまだまだ続く。「ベトナム料理、辛いない! 先生、一緒、食べる」。今日も授業は進みそうにない。大きくてクルクルとよく動く彼女の瞳を見ていたら、話をさえぎって、味気ない「テ形」の活用練習など、とてもやる気になれない。
去年二月。冷たい風が吹き込むテントで、初めて会った時、彼女は寒さに震え、怯えた目つきで小さくなっていた。「こんにちは」。私が微笑んで見せても、口は堅く閉ざされたまま・・・まさに「あいうえお」からのスタートだった。静まり返った公園のテントで、単調なオオム返しが淡々と続く。意思の疎通ができず、お互いがイライラする。大きな瞳も、小麦色のキレイな肌も輝きを失って、痛々しい程だったのをよく覚えている。
あの頃と比べると、今はまるで別人だ。身につけたあらゆる言葉を駆使して、何とよくしゃべること、よく笑うこと! 文法も活用もそっちのけ。度々、授業までもそっちのけ・・
「日本語教育って何だろう」。「言葉って何だろう」。彼女の生き生きとした表情を見ていると、そんな堅苦しい自問はどこかへ飛んで行ってしまう。彼女の笑顔の中に、全ての答えが詰まっている気がするのだ。そしてまた、私は、日本語教育に取りつかれる。
「結局、言葉って、そうなんだ」。ほのかに温かい私の結論。皮肉にも、一番伝えたいその気持ちだけが、いつまでも言葉にならない。それは、お互いの胸の中で静かにゆっくりと膨らんでいく。お互いがつながってゆく。
(阿部夕紀子)